2010年8月12日

音は演奏家のものである

少し前に、競泳で水着が問題になった時、水着が泳ぐ訳ではないと訴えた選手がいた。

楽器に関しても、全く同じ事が言えると、最近とみに感じるようになった。筆者ごときが偉そうに言える話ではない事は承知しているが、実感としてはそうである。楽器が演奏される時、演奏される音楽は、演奏家自身の表現である。しかし、音そのものもまた演奏家自身の持つ固有の表現だと言えるのではないか。

もちろん、楽器には個性があり、楽器の音が存在することに疑いは無い。実際の演奏においても、楽器の個性は音として現れてくると思う。楽器製作者の偉大さを否定している訳ではない。しかし、それでも、音は演奏家のものだと言っているのは、結局、楽器に固有の個性なり能力であっても、それを引き出すのは演奏家だからである。

コントラバス奏者の石川滋さんと、最近考えていることなど色々お話しさせていただく機会があった。石川さんは以前から同様の考えを持っていらっしゃって、ハイフェッツのエピソードを例に引いておられた。決して、楽器より自分が偉いとおっしゃっている訳ではない。石川さんは、楽器に対して非常に謙虚に接する方である。

演奏家にとって、良い楽器が良いセットアップであるに越したことはない。楽器の能力が高ければ、高度な要求にこたえられるし、弾きにくいセットアップでは、演奏に対してハンデを背負わされることになる。最高の楽器には、演奏家も最高の賛辞を送るはずである。しかし、それでもやはり、音は演奏家のものではなかろうか。

以前、楽器が消えるというのが究極の理想と言うような話を石川さんがしておられた。現実には、それは不可能に近いけどもという注釈があったような気がする。演奏中、音楽と演奏家の間には楽器があるんだけれども、究極的にはその存在が消えて、音楽だけになっているというのが、理想の状態ではないかという事だったと思う。

一方で、演奏を聴く聴衆との間には、必ず音が存在する訳だから、演奏家の意識から楽器が消えたとしても、音自体の魅力は残るのではないだろうか。双方から音を楽しみ、楽器は消えているけど音の魅力は存在する。音が演奏家のものというよりは、音の魅力が演奏家のものなのかもしれない。

2 件のコメント:

tajimanomegane さんのコメント...

いつも楽しく拝見させて頂いてます。
コントラバスという調整しづらい楽器に、真摯に取り組んでいらっしゃる姿に、感銘を覚えます。

石井宏著『誰がヴァイオリンを殺したか』という本の中に、似た話があったのを思い出しました。
リッカルド・ベルゴンツィとのインタヴューで、ベルゴンツィがこう言ったそうです。

「あらゆるヴァイオリンには、固有の音色なんてありませんよ。ヴァイオリンから聞こえてくる音というのは、すべてその弾き手の音です。別の人が弾けば別の音がします。」(57頁)

調整はとても重要ですが、ともすると技術がないのをタナに上げて、調整に走りたくなるので、自戒としています。

yamaguchi さんのコメント...

tajimanomeganeさんコメントありがとうございます。また、いつも読んで頂いてありがとうございます。

石川さんの話は演奏家の側からのお話ですが、製作者側のお話を引用してくださってありがとうございます。ベルゴンツィさんのお話も、高いレベルでのお話なのでは無いかと思います。究極的にはそうなると。

楽器自体の音色という要素が全く存在しないかというと、その辺は私にはまだまだ迷いがあるところです。私はヴァイオリンの事は良く分からないのですが、モデルによって音の傾向と言うのはあるようですし、コントラバスの場合でも、やはり作りによって傾向はあります。単純にいえば、明るい音の楽器、ダークな音の楽器や、良く鳴る楽器とそうでない楽器はやはりあります。
楽器に能力が無ければ、演奏家の技量より先に楽器に限界が来てしまったり、素晴らしい楽器であれば、演奏家が汲めども汲めども尽きないということもあるのではないでしょうか。

どの楽器を弾いても、演奏者の個性と言うのは音に現れて、「これは誰それの音だ」と分かる、という辺りが、ベルゴンツィさんのおっしゃっていることの中で、自分に認識できる範囲かもしれません。

興味深いのは、当の石川さんはセットアップや調整を非常に重視していらっしゃると言う事です。きっとベルゴンツィさんもそうなのではではないかと思います。
現実の世界で、現実に音を創り出さなくてはならない訳ですから、とにもかくにも、良く作られた楽器に適切なセットアップがなされている事は大前提で、その上で先の様なお話があるのではないかという気がします。

今回のような内容は、私が書くには少々手に余りますが、コメントを頂いて少し救われました。これからもよろしくお願いします。