2010年9月23日

コントラバスで

コントラバスのリサイタルやCDで、チェロやヴァイオリンなど他の楽器のために書かれた曲が弾かれる事がある。
演奏家の方からすれば、弾きたい曲というのは、コントラバスのオリジナルか否かに関わらず選んでおられるのではないかと思う。

聞き手としてはどうか。「オリジナルの楽器で弾けばいいし、聞けばいいのでは?」という疑問を投げかけられた時、反論したい気持ちはあっても、根拠はあいまいであった。もちろん、オリジナルの楽器で弾かれたCDも持っているし、好きである。「弾いてもいいじゃないですか」では、なぜわざわざコントラバスで聞きたいかの説明にはならない。もっと言えば、そもそもコントラバスでソロを聞く意味は何なのかと言う事にもなるかもしれない。

作曲家が楽器を選んで曲を書いているからには、選ばれた楽器で最も効果があがるように書かれていて当然である。普遍性のある音楽であれば、音楽としては楽器を選ばないという事はあるだろう。現実には、楽器の制約はあるので、コントラバスで演奏する場合には困難が伴う事が多いし、超絶技巧なり編曲なり何なりが必要になる。コントラバスのオリジナルの曲であれば、効果的に書かれていると思うが、やはり同じような難しさはあるのではないだろうか。演奏家の方には、聴衆が居る居ないに関わらず、演奏する必然があると想像するが、問題は聞き手の必然性である。

先に音の魅力について書いてから、今更お恥ずかしい次第だが、答えに気付いた。コントラバスの音の魅力である。ヴァイオリンでもチェロでも無いコントラバスの音の良さである。これらが聞き手である自分にとっての必然だと。演奏家の方には、大変な苦労を強いているのかもしれないが、オリジナルだろうが編曲ものだろうが、その効果は他の楽器では得られない。どんな楽器に対しても同じ事が言えるだろう。だからこそコントラバスの場合にも言える事なのではないか。
コントラバスの音で聴きたいのである。

2 件のコメント:

石川滋 さんのコメント...

聴き手の観点からこのようなことを言ってもらえると、コンサートではほかの楽器の曲のほうがむしろ多い傾向にある僕としては、力づけられます。僕の場合(あくまで弾き手としての考えですが)、やはりまず最初にコントラバス奏者としてのというよりは、一音楽家としての欲求あり、です。簡単に言えば、この曲を弾きたい、という欲求ですね。そこからすべてが始まります。
本当は、そのように思える曲がコントラバスのオリジナル曲にたくさんあれば、申し分ないのですが、残念ながら現実は違います。そこで、ある曲に魅かれた時に、ではこれを自分がコントラバスで演奏できるか?また、演奏できたとして、コントラバスでやる意味や魅力を表現する可能性があるか?という点から吟味します。当然、オリジナルを変形しすぎることなく、技術的に可能かどうかという点は大きなポイントですね。
この段階で没にした曲もたくさんありました。例を挙げるなら、たとえばドビュッシーのチェロソナタ。あれはチェロという楽器の音色、色があって初めて成立する音楽だと判断しました。ほかにもこのように判断して、その作品に敬意を表しつつ断念したことはずいぶんあります。
この作品に対する「敬意」というのは、ほかの楽器の曲を弾く場合、とても重要ではないかと思います。技術があれがなんでも弾いちゃえ、というかんじは僕はあまり好きじゃないですね。最近ヨーロッパでよくチャイコフスキーのロココ変奏曲(チェロ)を琴亜バスで弾くようですが、僕にはさっぱり魅力的には響きません。

まあ、こんなことを考えつつ、よりよいレパートリーはないかと、虎視眈々と(でもないか)狙っています。

yamaguchi さんのコメント...

石川さんコメントありがとうございます。

世界中の石川さんの様な演奏家の方が、新たな曲を選んで演奏するべく努力された結果として、少しずつコントラバスのレパートリーが広がっているんですね。作品に敬意を払っておられるから、演奏への欲求が生まれるし、敢えて演奏しないという選択肢を選ぶ事もあると言う事を伺い、厳しい世界を垣間見た気がします。
お弟子さんのブログで紹介されていたエドウィンバーカーさんのインタビューを読みましたが、難しい曲を長い間練習した話があって、技術的な判断をするのも修行僧のような厳しさだと感じました。誠実、という言葉が当てはまるように思います。
だいぶ前ですが、ストリング誌の記事か何かで、以前にあきらめた曲でも、何かの解決策が見つかって演奏に至る事もある、とおっしゃっていたように思いますが、今でもそういうことがありますか?そういう曲は、直観的に「弾けるはずだ」と感じられるのでしょうか。

ロココ風に弾くのは難しいと思いますが、ハイドンのチェロコンチェルトやこの曲がコントラバスで弾かれる事になるとは、youtube等で拝見して驚くばかりです。目新しさが消えても、聞かれ続け、演奏され続けるかどうかによって分かってくることでしょうか。
もし、作品に対する敬意が演奏に現われてくるものならば、聴衆にもまた、それは伝わるのかもしれないですね。