2010年8月27日

マジーニモデル6

いよいよバスバーを表板に削り合わせる。

ようやく今回の本丸にたどりついた。
バスバーの取り付けのコンセプトは色々あり、大雑把に言っても、バスバー自体の大きさや形、取り付ける位置、取り付ける時のテンションなどに違いが合る。

バスバーには、駒の振動を表板に効率よく伝えるという役割がある。名前の通り、主に低音側の補強に効くといわれている。さらに、駒から表板にかかる力を受けるための、構造上の役割も持っている。このため、駒が押してくるのに逆らうようテンションをつけて接着される事が多い。このテンションはもろ刃の剣で、強すぎると良くない、と思う。一般的には、表板は周辺に行くほど薄くなるので、バスバーの端は表板の薄い所に位置する事になる。場合によっては、駒を押し返す利点より、表板の薄い部分を引っ張るというマイナスが現れてくることもある。

どのようなコンセプトでバスバーを作ろうが、共通なのは、バスバーと表板が密着していなくてはいけない事である。

最終的に、バスバーのフィットが決まったら接着する。
ニカワを使う接着としては、面積も広いし一度に接着するので、作業は秒刻みである。さらに強度が必要とされる場所である。バスバーは木目が直行しない木端同士の接着なので、接着が上手くいけばトラブルは少ない。はずだ。

クランプの配置をはじめ、当て木の固定やニカワ鍋の配置まで、準備に時間を使う。リハーサルを行って、目標タイムをクリアする事を確認する。そして真実の瞬間である。

2010年8月20日

マジーニモデル5

表板のアーチはかなり戻ってきた。

写真の縮尺が違うので、この写真の見た目のままではないが、戻るのを待っていた甲斐があった。

宮大工の方の話では、建物の軒も瓦の重さで沈んでいるのが、修理の時に瓦を外すと、何百年も前の材料でも、元に戻ってくるということである。楽器を扱うこと自体、ずいぶん気の長い事をやっているような気がするが、このような建築を扱っていらっしゃる方の時間のスケールは、特に大きくて驚かされる事が多い。


スケールは違うが、ともかく木の繊維が切れていなかったので、元に戻ってきたのは幸いであった。
ここまで戻ってきてもらったので、これからさらに、サンドバッグなどを使って、できるだけアーチを再現する。この辺は、一気にやるのは禁物である。

熱を加えつつ型に押し当てて、アーチを元に戻す。様子を見ながら、何度にも分けて少しずつ進む。あまり欲張らずに、無理のない範囲で戻すことにした。

2010年8月12日

音は演奏家のものである

少し前に、競泳で水着が問題になった時、水着が泳ぐ訳ではないと訴えた選手がいた。

楽器に関しても、全く同じ事が言えると、最近とみに感じるようになった。筆者ごときが偉そうに言える話ではない事は承知しているが、実感としてはそうである。楽器が演奏される時、演奏される音楽は、演奏家自身の表現である。しかし、音そのものもまた演奏家自身の持つ固有の表現だと言えるのではないか。

もちろん、楽器には個性があり、楽器の音が存在することに疑いは無い。実際の演奏においても、楽器の個性は音として現れてくると思う。楽器製作者の偉大さを否定している訳ではない。しかし、それでも、音は演奏家のものだと言っているのは、結局、楽器に固有の個性なり能力であっても、それを引き出すのは演奏家だからである。

コントラバス奏者の石川滋さんと、最近考えていることなど色々お話しさせていただく機会があった。石川さんは以前から同様の考えを持っていらっしゃって、ハイフェッツのエピソードを例に引いておられた。決して、楽器より自分が偉いとおっしゃっている訳ではない。石川さんは、楽器に対して非常に謙虚に接する方である。

演奏家にとって、良い楽器が良いセットアップであるに越したことはない。楽器の能力が高ければ、高度な要求にこたえられるし、弾きにくいセットアップでは、演奏に対してハンデを背負わされることになる。最高の楽器には、演奏家も最高の賛辞を送るはずである。しかし、それでもやはり、音は演奏家のものではなかろうか。

以前、楽器が消えるというのが究極の理想と言うような話を石川さんがしておられた。現実には、それは不可能に近いけどもという注釈があったような気がする。演奏中、音楽と演奏家の間には楽器があるんだけれども、究極的にはその存在が消えて、音楽だけになっているというのが、理想の状態ではないかという事だったと思う。

一方で、演奏を聴く聴衆との間には、必ず音が存在する訳だから、演奏家の意識から楽器が消えたとしても、音自体の魅力は残るのではないだろうか。双方から音を楽しみ、楽器は消えているけど音の魅力は存在する。音が演奏家のものというよりは、音の魅力が演奏家のものなのかもしれない。